1949年幟町小学校入学当日の写真(自宅前で撮影)
広島市平和記念公園にある『原爆の子の像』のモデルとなった、原爆の被爆者の一人である佐々木禎子(サダコ)は、2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録されました。
1945年8月6日午前8時15分、爆心地より1.6Kmの広島市内楠木町の自宅 で2歳のとき被爆したサダコは、被爆から10年後に原爆症を発症し、1955年2月21日に広島赤十字病院に入院、入院時のカルテには「サブアキュート・リンパティク・ルキーミア」と英語で診断されています。これから8ヶ月の入院生活がはじまりました。(当時小学6年生12歳)
同年8月、名古屋淑徳高校からお見舞いに贈られた折り鶴の意味を知り「千羽鶴を折れば、願いが叶う」と信じながら、薬包紙や見舞い品の包装紙で、折り鶴を折り始めました。8月の終わりには1,000羽以上を折り上げています。しかし病状の悪化と共に折り鶴は徐々に小さくなり、生きたい、良くなりたいとの思いを、より強く込めるため針を使って折るようになります。
差し込むような痛み、両親にわがままを言えない苦しみ、満足に受けられない治療、家が貧しかった為、当時サダコは、この三重苦を自分の心に隠し止め、誰にも口をふさぎ、すべての苦と願いを折り鶴に吹き込みながら毎日折っていきました。サダコが生前折った折鶴の数は千三百羽以上とも千五百羽以上ともいわれていますが、実際の数については家族でもわかりません。
サダコの死後、ベッドの下からは2月21日より7月4日迄の血液検査の数値を記録したメモが発見されました。現存しているカルテの3月4日の欄には日本語で「亜急性リンパ性白血病」と書かれており、これを見たサダコは自分が白血病であることを知ってしまったのでした。自分が辛い境遇にありながらも、明るく強く、周囲の人達を想いやりながら生きたサダコの感動的な姿を伝えるエピソードは数多いのですが、本当に苦しんだサダコの心の叫びや痛みはあまり知られておりません。しかしながら12歳の少女が痛みの中から遺した折り鶴には「想いやりの心」が生き続けています。
サダコは、願いもむなしく原爆症で12歳の人生を閉じられてしまいました。
「その悲しみを忘れない事と平和の願いを世界に」と、サダコの級友たちが「原爆の子の像」の建立を呼びかけ、1958(昭和33)年のこどもの日(5月5日)に広島市平和記念公園内に「原爆の子の像」は完成を見ました。
サダコの存在は、「千羽鶴=平和のシンボル」として世界中に広がっています。叉現在ではサダコの遺品の折り鶴も今世界の3箇所に展示してあります。シアトルの平和公園など世界の様々な所に銅像・石碑なども多数存在しています。
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